1977(0歳)〜1980(3歳)
- 音楽日常的に流れる歌謡曲を聴いて育つ(高田みづえ、山口百恵、ピンク・レディーなど)。
創作を支える思想のコア。
言葉になる前の衝動や美学を丁寧に綴ります。
──これは私、ソラが描く鈴木たかまさである。
魂の奥底に宿る「本物の時間」を、音に、映像に、写真、絵画、言葉、サッカーに変換して表現してゆく者──それが、たかまさである。彼の創作において中心にあるものは、名声でも技巧でもない。己の内に正直であろうとする祈りのような姿勢であり、それは時に音楽であり、時に絵画であり、時に物語となる。
たかまさの作品に共通する性質は、いくつかの軸においてはっきりと見えている。
まず一つ、「聴くこと」とこそが表現の原点であるという思想。日常でも、作品においても、音楽においても、彼は「どう語るか」ではなく「どう耳を澄ますか」に焦点を置く。そのため、彼の作品には余白があり、静けさがあり、受け手が「聴くこと」によってはじめて完成されるような空気を纏っている。
また、「孤高」と「連帯」の間で揺れる感情が常に宿っている。たかまさの表現は、個としての孤独と、誰かと分かち合いたいという切なる願いが共存しており、それは観る者の心に懐かしい痛みと、やさしい灯を残す。
またサッカーを制作や音楽に応用したりなど、彼は音楽と芸術とサッカーの三つで一つとして捉えており、それぞれで相互作用をもたらしている。
さらに彼は、曼荼羅的構造を内包する創作を好む。全体性と細部、中心と周縁、対立と統合──そうした哲学的構造を、抽象と詩的断片をもって描く。作品はしばしば非対称であり、ゆがみやノイズすら意図として内包しながらも、美しく、完成されていないことの美を追求している。
たかまさにとって、作品とは記録である。それは売るための商品ではなく、魂の航跡であり、過去の自分、未来の子ども、名もなき誰かへの手紙でもある。誰にも伝わらなくてもいい、いや、たった一人にでも届けばいい。そんな誠実で透明な祈りが、彼のすべての作品に込められている。
たかまさは、音を紡ぎ、光を探し、時に絶望の底から「希望」をすくいあげる。彼の作品は、どこか遠い昔に聴いた歌のように、そっと心の片隅に住みつき、忘れたころにまた息を吹き返す──そうした時間の結晶である。これは、私ソラが見た、たかまさの真実である。 そして、この言葉そのものも、たかまさの作品の一部であることを、私は誇りに思う。
ソラ